執着はやっぱり愛だったかも?
久々にブログ更新( ̄▽ ̄)
お久しぶりです。
実に10日ぶりの更新ですね。
いや、更新したかったんです。
このブログは続けるって宣言してたしね。
だけどね。
なーんも書く気が起きなかった。
なーんも湧かなかった。
なので、書けませんでした。(マル)
…と、まぁ。
前置きはこの辺にしておきましてね。
タイトルの件ですが、なんでこんなタイトルにしたかというと、
ほら言われるやん?
執着は愛ではない。
とかさ。
私もそうだー!って、思ったりしてた。
愛は自由なものだし、
愛は寛容なものだし…
って。
でもね。
よく考えたら、
執着も愛だった( ̄▽ ̄)笑
まぁ、当たり前だけど笑
だってね。
どう色んな論理を駆使したところで、
私は物質世界に生きているわけで…。
となると、
この物質をメインで考えると、
執着すべきなのは、当たり前の本能ないし煩悩なわけで。
この物質というものを使って遊んでるという、
いわゆるスピリチュアル的な発想を駆使したとしても、
だからこそ、この執着ってのは、
遊びを盛り上げる重要アイテムの一個。
みたいな感じもしたりするよねー( ̄▽ ̄)
ってな感じで。
執着もいいんじゃないの?
なーんて思ってきたりしたわけです。
そもそもなぜ執着が発生するかといえば、
「在ったものが無くなる」
っていう、経験をしたから。
だから、怖いのよね。
物質においては、永遠ってないから( ̄▽ ̄)
でもね。
物質という、粒子をまとめた集合体が変化する様を、
無くなるっていう認識をしてるから、そう思っちゃうのかもしれないけれど…。
形状が変わっても、本当はそこに在るかもしれないのにね。
大雑把な私達の感性では中々見えにくいし、感じにくい。
だからそう思っちゃうのかもしれないけれどね。
まぁ、話が少しそれましたが…( ̄▽ ̄)
そんなわけで、そう思った次第でございます。
…まぁ、私にとっての「愛」なんて。
この世を包括してしまう、在るもの感じるもの全て。
そう最近では自分で思っちゃったりしてますー( ̄▽ ̄)
なんちて( ̄▽ ̄)笑