世界をまるごと愛す!(愛らんどエンターテイメント)

~自分=世界を丸ごと愛し発見、探求し、楽しみ遊び尽くす。円結び縁ターテイナーのお気楽探検Blog~

見えないセカイ

人は、実際に「見えている」状態であっても、

自分が受け取る意図がないと、受け取れない生き物である。

 

要は、「そこにあるのに、見えていない」状態。

 

見ているのに、見てないのである。

それは、自分自身が「ある」ものを排除しているのだ。

 

 

例えば、こんな話がある。

風鈴の音は、外国の人には認識できないらしい。

 

要は、風鈴を聞いて涼む気分になる風習なんてないからだ。

だから、風鈴というものを認識させると、風鈴の音が聞こえるようになるというもの。

 

これと同じで、人ははなから認識してないものを、認識なんてできないんだよ。

 

私、よく思うんだけど。

目に見えるものの方が実は少ないと思ってる。

 

要は、この目に反射したものしか映像としてとらえられないのだ。

だから、反射しないものは、仮にそこにあってもこの目には映らない。

 

あっても見えなければ、ないことになるのか?

…それは違うよね。

 

例え、目に見えなくても、

人間には五感が備わっているので、そこで感じれるはず。

でもそれすら、自分が認識しなければ?

 

要は、五感以外でも見えるものもあるかもね。

いや、あって然るべきものなんだと思う。

例えば、人の想いとかは、

目には見えないし、質感としても実在しない。

だけど、実際に在るものでは在るからね。

 

 まぁ、だからね。

 自分のセカイを一度疑ってみよう!!

 

あなたの居る世界は、本当にあなたの認識通りの世界なのだろうか?!

見ようとしていないのかもしれない。

「当たり前」は本当に「当たり前」なんだろうか??

 

見えていないものを、見ようとした時。

その時に、新しいセカイが広がっている…はず?!